2024

源氏物語』を読み始めてから、随分時間が経ってしまった。

今は、54帖あるうちの20帖「朝顔」まで読み進んだところ。

途中、本を新潮社の『新潮日本古典集成』に変えてここまで来た。やっと人物が自分の頭の中でも生き出し、プルーストの『失われた〜』を読んでいた時のような感じを少し味わう。

 

また仕事が始まると、いつもの感じだと、読めなく。仕事と生活としたいことのバランスを上手にとって、ほどほどでいけるよう2024こそ心がけたい。

小学館の『新編日本古典文学全集21 源氏物語②』(1995第1版第1刷)の「葵」を読み終えた。

 

ここまでに亡くなったのは、夕顔と葵上。

加えて、光源氏の母親と母方の祖母である桐壺更衣や按察大納言の北の方、

紫の上の母方の祖母である北山の尼君も、亡くなっている。

 

悲しみながらも話は次へ次へ展開。

じゃないと物語は続かない。

朝顔に手紙を送ったりして共感を誘ったり、

源氏は嘆いてみせるが、紫の上がいる。

葵上の親はいたたまれない。

 

葵上死後の正月、例年通り、娘婿のために新しい服を親が準備する。見事な着物だったようだが、いったいどんな着物だったのか、当時の着物やその仕立ての作業を見てみたい気がする。

 

 

小学館の『新編日本古典文学全集20 源氏物語①』(1994第1版第1刷)をやっと読み終えた。

 

巻末にある「官位相当表」や「内裏・清涼殿図」や「装束・乗り物・建物図」などを見ていると、高位の人たち・文化を支えるために、いったいどれだけの人がひもじい思いをしていたのだろうかと思ったりもする。

 

短絡的なのかもしてないけれど、何年たっても、社会の構造は変わらないんだな、と思ったりもする。

そんなこと思うなら、「自分が信じるよりよい方」へ動けばいいだけだとも思うけど、めんどくさいのかな。

楽しめばいいだけなのかな、この瞬間瞬間を。

 

先日、天満宮詣。

白梅も紅梅も枝垂れ梅も咲いてきれいだった。

天気もよく、空も青。

 

源氏物語は「末摘花」を読み終えたところ。

紅梅と比べられたり、紫の上と比較されたり、話のタネ・笑い種にされたりで、なんだかいたたまれない「末摘花」だけれど、源氏との縁は切れなかったみたいで、

人生いろいろ。

 

筋が通らない、という意味の「文なし、あやなし」や、

予想外でつらい、いう意味の「生憎し、あやにくし」など、

「あや」の音・響きが頭に残っている。

 

 

若紫

桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫、と少しずつ読み進んできた。

ほんと、少しずつ。

 

紫の上と藤壺は、紫つながりで血縁もあり。

桐の花が紫とは知らなかった。

 

最近、実家の片付けで着物の分類整理のため着付け教室に通い着物のこと勉強中。

除湿/防虫などの保管管理も手間がかかって大変。

昔の人は、いったい毎日どんなふうに着物と関わっていたのか。

今も昔も地球の自転速度は24時間くらいで、変わらないはず。

貴族から庶民まで、毎日どんなふうに過ごしていたのか、その暮らしをもっと知りたい、と思う。

 

昔の人は、限られた時間のなかで、たくさんのことをしていたように見えるし、いろいろなことが身になっていたように見えるけど、そうでもないのだろうか。

 

 

私はバタバタしてるだけで、何も身に付いてなくて、胸が苦しくなる。

 

 

 

雨夜の品定め

小学館の『新編日本古典文学全集20 源氏物語①』(1994第1版第1刷)を読み始めた。

校注・訳者は、阿部秋生/秋山虔/今井源衛/鈴木日出男氏。

 

全6冊で54帖あるらしいので、1週間に1帖読むと1年くらいで読み切れるのか。

 

今は2帖め。「帚木」の途中。

男たちの女論。

源氏の義兄・頭中将の「親ガチャ」絡みの発言やら、源氏のあられもない?くつろいだ女にも勝る描写やらもあった。

 

左馬頭はやや年配で、家事ばかりで余裕のない女や出家した女などに手厳しい感じ。

 

まあいつものことだけれど、結構お腹いっぱいで、一気には読み進められないでいる。