南総里見八犬伝

南総里見八犬伝』には、

儒教・仏教・道教的世界観が混在。

完結までに28年、

分量は106冊(『源氏物語』の二倍以上)で、

馬琴が下書きし、絵師が仕上げた挿絵もあるらしい。

 

荒唐無稽だと批判されることもある『南総里見八犬伝』だが、

理屈も筋もあって、読むのに苦はない。

ただ、斬ったり・首をとったり、血なまぐさい場面が続くと苦しくなる。

 

世界には他にも荒唐無稽な話があるようなので、ラブレーの『ガルガンチュワとパンタグリュエル』なども、機会があれば読んでみたい。

 

 

西行

伊勢や熊野、天皇神道絡みの話になると難しかった。

西行には、和歌ではあまり読まれない「虹」を読んだ歌もあるようだ。

そう言えば、「星」も日本古典ではあまり見かけないが、どうだろう。

院政と男色についても少し触れられていた。

蒙求

『蒙求(もうぎゅう)』は、

平安時代に日本に伝わった中国の故事集らしい。

子供の初学用・暗誦用として李瀚(りかん、713-766)が編集したもの。

四字句の韻文で596句から成る。

 

一つの故事が四字ずつにまとめられ、対句にして並べられているが、

短すぎて注がないとわからない、

並べ方や故事の取捨選択などに妥当性がない、

などの批判もあると解説にあった。

 

一編に2人ずつで31編が紹介されているので、62人のエピソードがあった。

立派であっても、讒言で殺されたり自殺したり、

混乱や安定の中で、賄賂や世襲、堕落や陰謀があった。

残虐さと機知と、音楽と奢侈と、なんだかいろいろあった。

優しい、人当たりのいいことばかりではまとめられないものがあった。

筆や紙の発明、書の変遷についても記事があった。

 

学校では、「也」や「乎」の書き下しは、ひらがなに直すように教わった。
しかし、例えば、p175書き下し文末「也」、p180書き下し文末「乎」は、

ふりがなも振られてるが、漢字のまま。
学問的には、漢字のままの方が通例なのだろうか。
学校で間違ったことを教わったのか、と気になった。

良寛

カフカ『変身』やジョイスの『ユリシーズ』に関する章段も読み、

ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』を読了。

講義の中で取り上げられている作品をもう一度読んで、再び読みたい。

おとぎ話として、『変身』や『ユリシーズ』を楽しんだり、

創作の苦労や工夫について思いを馳せてみたい。

 

続いて読み始めたのが、角川ソフィア文庫の『良寛』。

和歌や俳句、漢詩に加え、松本市壽さんの解説などが載っている。

良寛の書も漢詩も嫌いじゃないし、手まりに関する歌は可笑しい。

維馨尼(いきょうに)や貞信尼(ていしんに)のことは知らなかった。

長歌や旋頭歌も味わいがある。

鉢の子(托鉢に使う容器)の歌もよかった。

 

枕詞は「掛かる語句に対して呪術的な意味を込めた名残りである」という。

呪術的な何かを感じられたらいいのになぁ、と思うがうまく行かない。

 

最後に紹介されている

七言律詩の一節「人間(じんかん)の是非看破に飽く(世の中の善悪を見抜こうとすることにも飽きてしまったよ)」や

俳句「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」にもハッとさせられた。

喜びの戦慄

喜びの戦慄。

そんなものを感じられたらいいな、

ナボコフの文学講義を読みながら思う。

「ささいなものを不思議に思う」気持ちを忘れず、常識を超えて行く力がほしいと思う。

私はまだ「生きる術を学びとりたいというような青二才」(『ヨーロッパ文学講義』TBSブリタニカ、p481)な読者だ。

いちいちナボコフの翻訳された言葉を忘れないように書き留めておきたくなる。

「常識というものがいままでなにをしてきたか、その伝記を洗ってみれば、胸糞が悪くなるようなことばかりだからである。」(p470)

「常識というものは根本的にいって不道徳なものである。というのは、人間の自然な道徳は、模糊とした太古の昔より人間が生み出してきた魔術的祭儀と同じく、非合理的なものだからである。」(p470)

 

少し散歩に出かける。

いつもそう思ってやめてしまうので、今日はやめずに出かけよう。

自分の希を叶えよう。

ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件

1885年、スティーブンソン(1850-1894)が書いたこの作品では、薬を飲んで、人間ジキルから人間ハイドに変わる。

1942年発表された中島敦(1909-1942)『山月記』は、その性格ゆえ?に、人間李徴から人食い虎に変わる。

変化のきっかけ・動機も、苦悩も変化も違うが、別のものに変わり次第に戻れなくなる点は似ている。

狂気や憑依で人が変化してしまう話は昔から伝わるらしい。

 

四季はめぐり、暦もめぐるけれど、

私たちも、反復しながら変容して戻れなくなっていると、

ふと感じる。

今は、『ヨーロッパ文学講義』『枕草子』を早く読み終えてしまいたいと思っているが、体は横になって眠りたい感じ。

フロベール

1846年〜1854年まで付き合いのあったルイーズ・コレに、フロベールが送った「ボヴァリー夫人」創作に関する手紙が興味深い。

ナボコフ『ヨーロッパ文学講義』(TBSブリタニカ)の中には、

「同じ会話のなかに、五、六人の人間(会話している人物)、ほかの何人かの人間(噂になっている人物)、土地柄、人物や事物の描写を同時に配置しなければならない」(p194)、

「ぼくの小説で困ることは、いわゆる楽しみの要素が欠けていることです。ほとんど事件というものがない。しかし、イメージこそ事件なんだというのが、ぼくの主張です。この方法で小説の興味を持続するほうがむずかしい、失敗するとすれば、それは文体が拙いからです」(p200)

などが挙げられていた。

小説を書くのは難しそうだ。