マースレニツァ

マースレニツァは、東スラブ圏の伝統的なお祝い。

カーニバルで、クレープのようなブリヌィを食べたりもする。

冬にお別れをいい、春を迎える。

2018年は、2月12日〜18日。

始まりの12日は、4月8日の復活大祭(パスハ)の56日前にあたり、

18日の後は、復活祭までの四旬節に入っていく。

日程は毎年変わる。

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フランス語と日本語の記事では、音楽やカットなど、ビデオの編集が異なる。 

 

ブリヌィблиныとマースレニツァмасленицаで検索すると、美味しそうな写真がいっぱい出てくる。

блины масленица

背筋

「本を背筋で読まないなら、まったくの徒労だ」と、ナボコフは『ヨーロッパ文学講義』のディケンズの章の出だしで言う。

「本を読むとき精神を使うのは言うまでもないが、芸術の喜びが生まれる場所は、肩甲骨のあいだにある」とも。

肩甲骨はバイオリンを弾く時にも大事なので、なんだか納得してしまう。

帰り道、まっすぐ立つ樹木に感心する。

白楽天

政治家として人民を「兼(広く)く済(すく)う」ことを意識した詩、

プライベートの充実「独(ひと)り善(よ)し」を大切にした詩、

その両方を詠んだのが白楽天白居易)という人らしい。

 

下定雅弘氏の

詩の形式と内容についてのコラム(p120-122)ほか、いろいろな解説が、私の初歩的な疑問や思い込みを解消し、理解を促してくれた。

例えば、

「絶句は四句の律詩」「排律は句数が十句以上の律詩」

 

今体詩=律詩は、

「音調の諧和とリズムの美しさを特色とする」ため、「その時々の状況に即しての心情の率直な発露に優れて」いて、

 

五言古詩は、

「字数の少なさおよびリズムの断続性の強さのために、思索性の高い精神や感情を担うのに優れており、知識人の志を詠じるのに適して」いて、

 

七言古詩は、

「リズムが活発流麗であるために、」「変化に富む叙事や、起伏に富む感情表現に適する」。


楽天は、一時期、鶴を飼っていて、友だち・子どものように大切にしたらしい。羨ましい。

老子・荘子

足ることを知り、

万物を区別せず、

善悪の外に遊ぶ。

 

今から2000年以上も前にいた諸子百家の思想を読んでいると、

もう考える必要はなく、ただ実践するのみという気がしてくる。

結論はすでにあるのだから、

悩んだり、苦しんだりすることが、ばかばかしく思えてくる。

聖なる怠け者の冒険

『恋文の技術』を勧めてくれた知人から、再び、森見登美彦の作品を借りた。

新聞連載の後、単行本が出て、文庫が出た。その文庫を貸していただいた。

イラストはフジモトマサルさん。

登場人物の「ぽんぽこ仮面」を、うっかりすると「ぽこぽこ仮面」と読みそうになりながら、今は、第3章をもう少しで読み終えるところにいる。

 

森見さんは、いろいろな要素を散らしておいて、それをたぐり寄せるのが上手な感じ。

新聞連載と単行本と文庫本ではかなり文章に変更があったとあとがきに書いてあった。

 

外は曇りで、窓を開けると雪。

やるべきことを全てやれないまま週末が過ぎていく。

思い煩わず、心を空にして、その時々を過ごせたらいい。

だから、今からそうしよう。

論語

残されているものによって、

2500年程前にも遡って、その考えを読み、知ることができるのは不思議だと思う。

 

第二部を読み始めて印象的だったのは、加地伸行さんの解説(p142)

「この祖先供養は本来儒教的なものであり、インド仏教にはありません。」

「つまり、孝とは<親に服従する>というような単純な意味ではなくて、<生命の連続に対する畏れと尊敬と>という宗教意識を核とするものなのです。」

 

儒教や仏教に、特段、思い入れや信仰があるわけではない。

ただ、毎日の生活の中で、「そもそも」を忘れがちなことを反省した。

よく知りもせず、何も為していないのに、

知ったようなつもり、何事かを成し遂げたつもりで、

顧みず、努力しないことを恥ずかしいと思った。